■概要
永禄4年(1561年)甲斐の虎・武田信玄と越後の竜・上杉謙信という戦国時代における最強の二人が激突した第4次川中島の戦いの跡地。現在、八幡原史跡公園となっている場所は武田信玄が本陣を置いたとされる場所。
弱体化した関東管領上杉憲政より管領職を受け継いだ謙信は、関東管領職の大義名分をもとに関東の雄・北条氏康を攻めるが、小田原城に籠った氏康を攻めきれず戦線は膠着。氏康は、当時同盟を結んでいた武田信玄に謙信の背後を突くように依頼し、信玄は越後国境の海津城より謙信を脅かす。
謙信はこれを討って後顧の憂いを断つべく、1万3000の本隊を率いて春日山城を出陣し、妻女山に本陣を置く。対して信玄は2万余の軍勢を率いて海津城に入城し、謙信の動きをけん制するも謙信は妻女山から一歩も動く気配が無い。
しびれを切らした信玄は、参謀・山本勘助の献策により、妻女山の謙信本陣の背後を別動隊が急襲し、謙信が八幡原まで下山したところを、信玄本隊が迎え撃つという「キツツキ戦法」を採用。しかし、謙信はこの策を見破っており、別動隊が妻女山を攻める前に下山し、八幡原の信玄本隊を急襲。はじめ謙信は兵力差によって信玄本隊を圧倒するも、信玄別動隊が妻女山を下りて謙信本隊に追いついたことにより兵力差は逆転し、謙信はついに撤退を決意する。
しかし、謙信は信玄を追い詰めることができなかったことを悔やみ、単騎で信玄本陣に切り込み、信玄に三太刀を浴びせ、信玄が防御した軍配に七か所の傷を負わせたとされる。
合戦の後に、信玄・謙信共に各地の大名に自身の戦勝を宣伝しているが、合戦による戦死者は両軍とも3~4000人であり、客観的に見れば「引き分け」であったといえる。三年後に、第5次川中島合戦が行われるが、ここでも勝負はつかず、戦国時代最強とうたわれた両雄の決着は最後までつかなかった。
■見どころ
<謙信の太刀を軍配で受け止めた信玄の像>
<三太刀七太刀の碑>
■あわせて巡りたい
・海津城(松代城)(日本百名城No.26)
越後国境にある対謙信用に築かれた要塞。
八幡原に布陣する信玄本隊と妻女山を攻める別動隊はここから出発した。
・妻女山
謙信が本陣を置いた八幡原南方にある小山であり、八幡原一帯が見渡せる。
・典厩寺
第4次川中島合戦で戦死した信玄の弟・信繁を祀る寺。
信繁の墓のほか、信繁の首を洗ったとされる井戸や宝物館がある。
・雨宮渡
信玄の策を見破った謙信が妻女山を下りて八幡原に向かう際に千曲川を渡ったとされる場所。
・勘助宮
「キツツキ戦法」を提案した武田家参謀・山本勘助が討ち死にしたとされる場所。
■事前学習推奨コンテンツ
・NHK大河ドラマ「武田信玄」(主演:中井貴一)
管理人が最もおススメする歴史コンテンツの一つである。武田信玄の初陣(海ノ口攻め)から西上作戦途上における死までの怒涛の障害を描いている。現代の大河ドラマでは考えられないエキストラや馬の数であり、大迫力である(真田丸や井伊直虎と比べていただきたい)。また、役者は脇役に至るまで他のドラマでは主役クラスの俳優ぞろいであり、超豪華である。騙されたと思って、1話だけでもご覧頂きたい。
■施設データ
- 施設名 八幡原史跡公園(川中島古戦場跡)
- 訪問日 2017年8月18日(火)
- 住所 長野県長野市小島田町1384-1
- 電話番号 026-286-5526
- 公式HP 長野市・信州風林火山特設サイト
- 入場料 無料
- 駐車場 無料
- 所要時間 30分程度
- 注意点 特に無し
~歴史スポットとして~
- 歴史に浸れる度 ★★★☆☆(ぜひ周辺スポットをあわせて巡りましょう)
- 他では見れない度 ★★☆☆☆(執念の石など)
- 総合評価 ★★☆☆☆
- アクセス性 ★★★☆☆(長野インターから7分程度)
- 分かりやすさ度 ★★★☆☆(解説・案内などまあまああります)
- 景観度 ★☆☆☆☆(景観スポットはありません)
- 女性と行ける度 ★★☆☆☆(普通の公園ですが、一般的にも有名な場所)
- 総合評価 ★★☆☆☆
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