関ヶ原古戦場跡 ~天下分け目の「町丸ごと古戦場」

古戦場

笹尾山・石田三成陣所跡から関ヶ原を望む

概要

岐阜県不破郡関ヶ原町にある、言わずと知れた天下分け目の決戦「関ヶ原の戦い」が行われた場所。
笹尾山の石田三成陣所跡をはじめとして東軍・西軍各将の陣所跡・墓地や開戦地の碑などがあり、このあたり一帯26万平方キロメートルが国の史跡に指定されている。個々人のニーズに応じて、西軍大好きコース・東軍大好きコースなど1~6時間程度の様々な散策コースが用意されている。
関ヶ原町は「町丸ごと古戦場」がキャッチフレーズとなるほど、町の至る所に古戦場の遺構が残されている(逆に言うと他には何もない町・・・)。

■見どころ

西軍・東軍いずれが好きかに応じて、西軍大好きコース()・東軍大好きコースを選んで回るのが良いだろう。管理人は圧倒的に西軍びいきなので、西軍大好きコースを選んだが、時間があれば、裏切りの将・小早川秀秋が陣を置いた松尾山もふくめて回る行軍コース(約6時間)を是非おススメしたい。

西軍大好きコース(徒歩約3時間【6km】)
関ケ原町歴史民俗資料館→決戦地→島左近陣跡→笹尾山・石田三成陣跡→島津義弘陣跡→開戦地→北天満山・小西行長陣跡→南天満山・宇喜多秀家陣跡→藤古川ダム平塚為広碑→大谷吉継墓・湯淺五助墓→大谷吉継陣跡→山中の若宮八幡神社→西首塚

東軍軍大好きコース(徒歩約2時間40分【6km】)
関ケ原町歴史民俗資料館→岡山(丸山)烽火場/黒田・竹中陣跡→本多忠勝陣跡→藤堂高虎・京極高知陣跡→福島正則陣跡→松平忠吉・井伊直政陣跡→東首塚→田中吉政陣跡→徳川家康最後陣跡

行軍コース(徒歩約6時間【13km】) ★管理人おススメ
関ケ原町歴史民俗資料館→決戦地→笹尾山・石田三成陣跡→開戦地→北天満山・小西行長陣跡→南天満山・宇喜多秀家陣跡→平塚為広碑→大谷吉継墓・湯淺五助墓→大谷吉継陣跡→弘文天皇御陵候補地・自害峯の三本杉→脇坂安治陣跡→松尾山・小早川秀秋陣跡→福島正則陣跡→島津義弘陣跡→徳川家康最後陣跡→田中吉政陣跡

石田三成指揮所

<笹尾山 石田三成陣所跡(展望台)>
笹尾山の山頂にあり、陣所跡は展望台になっていて関ヶ原が一望できる。
山頂といっても麓から数分程度。音声解説パネルもあり、分かりやすい。

石田三成陣地跡

笹尾山・島左近陣所跡

山頂の光成陣所を守る形で笹尾山の麓にある

馬防柵

馬防柵

笹尾山付近の関ケ原笹尾山交流館では、甲冑のレンタルもやっていて時間無制限で借りることができます。季節が良ければ甲冑を来て各陣所跡を巡り、戦国の歴史に思いを馳せてみてはいかがだろうか。

関ヶ原笹尾山交流館

甲冑

甲冑レンタル

また、関ケ原笹尾山交流館には関ヶ原にまつわる様々なグッズが販売されており、その中でも特におすすめな商品として、陣所跡の展示で使った家紋入りの大きな旗の中古品を500円で販売している。このサイズの旗は一般的には5000円弱はするので、非常にお得である。管理人は、島津家の旗を購入して帰って自宅のダイニングに飾っている。奥さんの許可が得られるなら、自宅でも戦国の歴史に思いを馳せられるので、是非おすすめしたい。但し、下の写真にあるように穴が開いていたりするのは普通なので、状態についてはスタッフに必ず尋ねてから購入するようにしたい。

島津陣地跡

島津陣所跡

このサイズの旗の中古品が500円で売られている。

島津家旗

管理人自宅に飾ってあるもの

隠せば目立たないがこのように破れがあったりするので、事前にスタッフに確認を!

公式パンフレット

クリックもしくはタップ頂くと大きく表示されます。

関ヶ原古戦場公式パンフレット

公式パンフレット

関ヶ原古戦場公式パンフレット

おまけ:関ヶ原の戦いについて

日本史上はじめて日本国を統一した豊臣秀吉の死後、日本全国の大名が、豊臣家五大老筆頭・徳川家康を総大将とする「東軍」と、五奉行筆頭・石田三成を中心とする「西軍」に分かれて戦い、東軍が勝利を収めた戦いです。この合戦での勝利後、徳川家康は急速に勢力を拡大し、江戸幕府を開いて日本を再び統一することとなります。

では、なぜ秀吉の死後このような戦いが勃発したかというと、戦国時代においては大名の死後は嫡男(長男)が政権を継承し、嫡男が幼い場合は家老とよばれる譜代の重臣を中心とした政権運営が行われるのが一般的でしたが、秀吉は百姓上がりの大名だったがために、代々武家出身の他の大名とは違って譜代の家臣や一族衆がおらず、秀吉の死後、幼い嫡男・秀頼を盛り立てて政権を継承させようという意識をもった家臣は非常に少なかったことが挙げられます。

秀吉は信長からの政権継承後、武力で天下を統一するという信長の大方針であった「天下布武」を大きく転換し、すべてを武力に頼らず、威嚇や巧みな調略を駆使して、九州から東北に至るまで驚くべきスピードで日本全国を統一しました。しかし豊臣政権は、その後の江戸時代における徳川家のような譜代の家臣を中心とした安定した政権運営ではなく、威嚇や利害関係で調略した外様大名を中枢に据えた政権運営であり、秀吉も徳川、上杉などの有力外様大名を「五大老」に任命して実権を与えつつ、行政については「五奉行」といった実務屋を別個に置いてけん制させるなど、安定した体制構築に苦心しましたが、秀吉の死後、わずかな期間でその体制は瓦解することとなります。

五大老筆頭であった徳川家康は、秀吉が定めた掟や遺言を次々に反故にし、大名同士の結婚を積極的に斡旋するなど、自身の基盤固めを進めます。五奉行筆頭であり豊臣秀吉によって立身出世を極めた石田三成はこの動きを警戒し、家康と事あるごとに衝突することとなります。

家康は賤ケ岳七本槍で知られる武闘派で大の文官嫌いである加藤清正や福島正則を懐柔して味方につけ、三成は旧来の友人である大谷吉継と協力して西国大名筆頭の毛利家を総大将に担ぎ上げ、同じく西国大名の宇喜多・小西などを引き入れ、勢力づくりを着々と行っていきます。

三成は家康と雌雄を決するにあたり、会津の大名であり豊臣家への忠義に厚かった五大老の一人・上杉景勝の筆頭家老・直江兼続と通じて、景勝の本拠・会津から家康を挑発させ(世にいう直江状)、家康を会津討伐に向かわせたのちに、自身も兵を率いて東征し、家康を挟み撃ちにする作戦を立てました。

しかし家康はこの作戦を見抜いており、会津出征後、三成が佐和山城で兵を起こしたことを聞くや反転して江戸に戻り、江戸でしばらく逗留ののち、尾張の大名・福島正則を先鋒とし、関ヶ原に向かいます。

その頃大垣城に逗留していた三成も家康の動きを聞いて関ヶ原に移動し、笹尾山に本陣を置きました。
そして、宇喜多秀家を先鋒として・小西行長・島左近といった主力を正面に据え、側面の松尾山には秀吉の養子であった小早川秀秋の大軍を配した鶴翼の陣を敷きました。更に東軍総大将の家康が陣を布いた桃配山の後方の南宮山には西軍総大将家の毛利家から毛利秀元・吉川広家・安国寺恵瓊といった面々が陣を布き、兵力はお互い約8~9万と互角でありながら、西軍が東軍を包み込む圧倒的に西軍有利な布陣でした。

関ヶ原合戦布陣図(出典:Wikipedia)

東軍は、福島正則を先鋒として、黒田長政・細川忠興・井伊直政らを後方に配し、家康は背後の桃配山に本陣を置きました。そして、慶長5年(1600年)9月15日晩秋の濃霧が漂う午前8時に、井伊直政は福島正則を出し抜いて、西軍先鋒の宇喜多秀家に発砲し、合戦の火ぶたが切られます。

当初は島左近の奮戦などにより西軍有利で合戦は進められたが、松尾山の小早川秀秋は山上で様子見を決め込み、西軍総大将家の毛利軍も山を下りずに沈黙、宇喜多・小西といった主力に入るはずであった島津豊久・義弘も三成との意見の相違から動かず、西軍は徐々に押されていったものの、諸将の奮戦によりまだまだ一進一退の攻防を維持していました。

その時、突如として松尾山に布陣していた小早川秀秋が東軍に寝返り、松尾山の麓に布陣していた大谷吉継に襲い掛かります。元々小早川秀秋は形上西軍についていたものの、豊臣家における処遇については不満を抱いており、合戦になれば東軍に寝返るといわれていました。吉継はそのことを見抜いており、あえて松尾山の麓に陣を布き、小早川秀秋の裏切りに備えていたといわれています。

関ヶ原合戦図屏風

この小早川秀秋の裏切りにより、西軍の敗戦は決定的となり、島左近は討ち死に、三成は本拠地の佐和山に落ち延びることとなりますが、数日後に東軍により捕らえられて処刑されます。

最後まで三成に反発して動かなかった島津軍は、西側に逃げるのではなく、東側の伊勢街道を敵中突破し、九州まで引き上げて島津軍の意地を見せました。

このように関ヶ原の戦いは午前8時に東軍・井伊直政隊の発砲により始まり、午後2時に西軍・石田三成が敗走するまでわずか6時間という短い合戦でしたが、この後数百年に及ぶ徳川家による日本支配を決定づけることとなります。完璧な布陣により勝利を確信した三成でしたが、合戦が始まってみると様子見・裏切りの続出で、大半は家康に通じていたことが明らかになりました。関ヶ原の戦いは合戦において勝負が決まったのではなく、その前の調略合戦において既に勝負がついていました。

五大老・五奉行というとイメージがわきにくいかもしれませんが、現代でいうと「五大老」は政治家のトップである「大臣」、「五奉行」は官僚のトップである「事務次官」といったところで、関ヶ原の戦いは現代でいうと政治家vs官僚の戦いであるといえます。いくら実務家として有能な三成であっても、日々熾烈な駆け引きを行っている政治家・家康には到底かなわなかったのかもしれません。

現代の政治においても、政策を立案する政治家と実務を行う官僚は日々攻防を繰り広げていますね。

関ケ原町 観光ガイドブック(出典:「せきがはら巡歴手帖」)

事前学習コンテンツ

・司馬遼太郎「関ヶ原」(全3巻)
関ヶ原の合戦前夜から合戦に至るまでの歴史について、「直江状」などの代表的なイベントは歴史に忠実に押さえつつ、読みやすい小説として書かれています。余談ですが、司馬遼太郎は管理人が在住する東大阪に拠点を置いた小説家です(管理人の自宅から徒歩圏内に司馬遼太郎記念館があります)。

関ヶ原〈上〉 (新潮文庫)
司馬 遼太郎
新潮社
1974-06-24

映画『関ヶ原』
上記の司馬遼太郎作品の映像化作品で、2017年8月26日公開。
3000人のエキストラと400頭の馬を使い、彦根城や姫路城などの国宝級の建造物をロケ地としてふんだんに使った撮った歴史大作。大迫力の作品であるため、是非、映画館での観覧をおススメしたい。

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・コーエーテクモゲームス「信長の野望 創造 withパワーアップキット」
超有名な歴史シミュレーションゲームですが、本作は歴代シリーズの中でも関ヶ原の戦いシナリオに重点を置いて作られています。ムービーや合戦も充実しており、「自分が関ヶ原の戦いを動かしたい!」という方にはイチオシです。ちなみに映画「関ヶ原」制作委員会にはコーエーテクモゲームスも名を連ねています。

歴史スポットデータ

  • スポット名     関ヶ原古戦場跡
  • 訪問日       2017年5月2日(火)※GW
  • 住所        岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原894−28(関ケ原町歴史民俗資料館)
  • 電話番号      0584-43-2665(関ケ原町歴史民俗資料館)
  • 公式HP      関ヶ原観光Web
  • 散策料       無料 ※資料館入館は有料
  • 駐車場       無料
  • 所要時間の目安   1時間30分~6時間
  • 混雑度       小
  • 注意点       松尾山登山(小早川陣所散策)の場合、トレッキングに適した服装を。

管理人の勝手な評価

~歴史スポットとして~
  • 難攻不落度     ★★★☆☆(西軍有利な布陣を体感できます)
  • 歴史に浸れる度   ★★★★★(天下分け目の決戦に浸りましょう)
  • 他では見れない度  ★★★★★(関ヶ原町には他に何もありませんが、逆にそれが良いです)
  • 総合評価      ★★★★☆
~行楽地として~
  • アクセス性     ★★★★☆(名神関ヶ原インターすぐ、在来線関ヶ原駅も近し)
  • 散策のしやすさ度  ★★☆☆☆(平坦ですが、めちゃくちゃ広いです)
  • 分かりやすさ度   ★★☆☆☆(解説、案内パネルはそれほど多くないです)
  • 景観度       ★☆☆☆☆(松尾山まで登ればそこそこ景観が良いですが・・・)
  • 女性と行ける度   ★☆☆☆☆(戦国好きでなければ本当に何もない田舎です)
  • 総合評価      ★★☆☆☆

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