■概要
会津国の守護であり、南奥州の覇者であった蘆名氏が「黒川城」として築いた城。
天正15年(1587年)佐竹からの養子であった蘆名義広が蘆名氏当主となったが、その後、天正17年(1589年)に北奥州の覇者であった伊達政宗との勢力争いに敗れ(摺上原の戦い)、伊達氏に黒川城を明け渡すこととなる。但し、この伊達氏による蘆名領侵攻は、天正15年(1587年12月)に、既に天下を統一しつつあった豊臣秀吉から関東・東北諸大名向けに出されていた惣部事令(大名間の私戦禁止)に反しており、その後、小田原にて秀吉に恭順した政宗は黒川城を接収され、豊臣家臣・蒲生氏郷に明け渡すこととなる。蒲生氏郷は黒川城を「会津若松城」と改名する。
1598年(慶長3年)には、蒲生家は家中騒動のため宇都宮へ転封され、越後より上杉景勝(謙信の子)が会津に入封するが、1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いで西軍に加担した上杉景勝は徳川家康によって米沢城に転封され、その後蒲生家が再び会津若松城主に呼び戻される。
■見どころ
会津若松城は、明治維新の際に新政府軍が旧幕府軍討伐のために東北を北上した「戊辰戦争」の舞台としてなどで有名な城であり、城内の展示も戊辰戦争関連で埋め尽くされている(「白虎隊の悲劇」など)。戦国ファンの方は少し肩身の狭い(?)思いをされるかもしれないが、蘆名氏・蒲生氏についても少ないながらもちゃんと紹介されているので、安心して頂きたい。
防御施設としては、本丸堀の外側には西側に西出丸、北側に北出丸、東側に二の丸を配し、南側には出丸は存在しないが、南側を流れる湯川と堀で二重の防御となっている。出丸から攻め上る敵は、高低差を利用して本丸から攻撃し、仮に出丸を突破されて本丸帯郭まで攻め寄せられた場合も、走長屋からの銃撃や石落としで殲滅が可能な作りとなっている。特に、北出丸に敵を誘い込めば本丸、二の丸、西出丸の三方向からの銃撃で殲滅が可能なことから、北出丸は通称「鏖(みなごろし)丸」と呼ばれ、戊辰戦争においても北出丸が突破されることは無かったといわれる。東側の二の丸については、高さ20mの高石垣で防御されている。
本丸天守は、歴代の城主となった蒲生氏や加藤氏が改修を重ねた立派な五重五塔の層塔型天守であり、戊辰戦争においては新政府軍の猛攻に対して1ヶ月も耐え抜いた東北地方屈指の名城である。
出丸の門跡や土塁など遺構が多く残っており、難攻不落ぶりを感じながら、散策して頂ければと思う。
戦国ファンの方は、蘆名義広と伊達政宗との合戦の舞台となった摺上原古戦場跡と一緒に回ることで、蘆名氏興亡の歴史に思いを馳せて頂きたい。
<五層五重の層塔型天守>
■あわせて巡りたい
伊達政宗が蘆名義広を滅ぼした合戦跡地です。
猪苗代湖の北側にあります。
■事前学習コンテンツ
・独眼竜政宗(大河ドラマ) 主演:渡辺謙
遅く生まれた戦国大名として東北地方に独眼竜の名を轟かせた伊達政宗の生涯を描いた作品。
伊達氏と蘆名氏との攻防や、伊達政宗が摺上原の戦いにおいて蘆名を滅ぼして黒川城主となり、その後蒲生氏郷に明け渡す場面についてもしっかりと描かれている。
■城データ
- 城名 会津若松城(別名:鶴ヶ城)<日本百名城No.12>
- 登城日 2017年8月22日(火)
- 住所 福島県会津若松市追手町1-1
- 電話番号 0242-27-4005(史跡若松城址・鶴ヶ城管理事務所)
- 公式HP 会津若松観光ビューロー公式HP
- 入場料 有料
- 駐車場 有料(西出丸Pなど)
- 所要時間の目安 120分程度
- 混雑度 中大
- 注意点 特に無し
~城として~
- 難攻不落度 ★★★★☆(戊辰戦争で新政府軍の猛攻を1か月防御)
- 歴史に浸れる度 ★★☆☆☆(戦国時代の歴史紹介は少ないです)
- 他では見れない度 ★★☆☆☆(堅牢ですが、一般的な平山城です)
- 総合評価 ★★★☆☆
- アクセス性 ★★★★☆(会津市の中心街、インターからも近い)
- 登城のしやすさ度 ★★★★☆(広いですが、平坦)
- 分かりやすさ度 ★★★★☆(解説パネル等は豊富、戦国は少ないですが・・・)
- 景観度 ★★☆☆☆(会津市街が見渡せますが、まあ普通)
- 女性と行ける度 ★★★★★(茶室や庭園もありデートにもおすすめ)
- 総合評価 ★★★★☆(戦国ファンには微妙ですが、一般的な行楽地としては◎)
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