■概要
永正9(1512)年、当地(上野)を支配する長野氏によって築かれた平山城です。
戦国時代初期においては、関東管領・山内上杉家の支配が及んでいましたが、永禄元(1558)年、山内上杉家15代当主・上杉憲政が越後に亡命した後は、憲政から関東管領を継承した越後の上杉政虎(のちの謙信)、甲斐信濃の武田信玄、相模の北条氏康によって三つ巴の激しい争奪戦が繰り広げられます。
そのような中で、名将として知られる当時の長野家当主・長野業正は、六度にわたって武田信玄の侵攻を防衛し、箕輪城を守り抜きます。業正は臨終に際し、「我が葬儀は不要。我が墓前に一つでも多くの敵兵の首を並べることが最高の供養と心得よ」と言い残します。しかし、家督を継いだ業盛はまだ14歳であり、武田信玄の侵攻に耐え切れず、上杉謙信の援軍を頼るも間に合わず落城します。
武田家時代には、甘利昌忠、真田幸隆・内藤昌豊などの有力家臣が城代を務めますが、長篠の戦いで内藤昌豊が討ち死にすると、息子の昌月が城代を務めます。
織田・徳川連合軍による甲州征伐で武田家が滅びると、織田信長から上野一国を拝領した滝川一益が箕輪城を接収し、内藤昌月もこれに従いますが、本能寺の変で信長が倒れた後、神流川の戦いで滝川一益は北条軍に敗れ、内藤昌月は北条軍に降ります。
その後、北条家当主・氏政の弟である氏邦が入城しますが、豊臣秀吉による小田原征伐の際に、箕輪城は前田利家・上杉景勝連合軍の攻撃を受けて落城します。小田原征伐の後に、関東に入封した徳川家康は、有力家臣である井伊直政に箕輪城を与え、直政は箕輪城を近代城郭に改修しますが、慶長3(1598)年、高崎城に移ったことにより、箕輪城は廃城となります。
■見どころ
頭文字(イニシャル)Dで有名になったドリフト族の聖地「榛名山」の東南麓に広がる丘陵に築かれた広大な平山城です。
上杉・武田・北条の三国による度重なる侵攻から防衛した上州の中心拠点であり、戦国時代の平山城としては類を見ない巨大な堀跡など、見応えたっぷりのお城です。
関東地方における戦国時代のメイン舞台に思いを馳せましょう。
あと、余談ですが、名胡桃城や岩櫃城など群馬県の城全体の特徴として言えることですが、「整備が行き届いている」「花や植物が綺麗」という点が上げられます。群馬県の県民性ですかね??
ちなみに記事内に出てくる花々はほぼほぼ管理人妻が撮影のものです。
■写真&散策記
花壇が綺麗に整備されています。
二ノ丸に咲いていた花々(名前は分かりかねます・・・)
本丸北虎口から眺める本丸堀跡。
(左側が本丸、右側が御前曲輪)
御前曲輪を北に抜けて新曲輪へ。ここには北門(北虎口)がありました。
丸馬出は残念ながら大きすぎて一枚の写真では捉えきれません。。
本丸西虎口に接続された橋台跡です。本丸から蔵屋敷へ抜けるルート。
周辺の川から採ってきた石だそうで、丸っこい石が多い。
野面積みですが、ほとんどの石垣は城の最終期にあたるものだそうです。
続いて本丸・二ノ丸・三ノ丸などの主要部と大手門のある南側の曲輪群を分断する「大堀切」へ。
大堀切の下へ行くにはかなりの階段を下っていきます。
こちらは大堀切の底に近い鍛冶曲輪。
城内で唯一建物が復元されている郭馬出西虎口門です。
箕輪城を象徴する城門であったと推定されています。
城の南部側からは本丸へ二ルートありますが、二ルートが集約される防衛上非常に重要な門であったとされています。
登城路の分岐路となっている「木俣」と呼ばれる曲輪です。五分岐していることから木の字をあてがって木俣と呼ばれます。
木俣あたりから眺める郭馬出。巨大な馬出と堀に攻めてきた兵も圧倒されたことでしょう。
以上で散策終了!
- 城名 箕輪城<日本百名城No.16>
- 種別 平山城
- 登城日 2019年4月21日(日)
- 住所 群馬県高崎市箕郷町西明屋ほか
- 電話番号 高崎市箕郷支所産業課(027-371-5111)
- スタンプ設置場所 高崎市箕郷支所受付(休日は警備室にて)
- 公式HP 高崎市公式HP
- 入場料 無料
- 駐車場 無料
- 所要時間の目安 90分程度
- 混雑度 中
- 注意点 特に無し
~城として~
- 難攻不落度 ★★★★★(上野の中心となる巨大な要塞です)
- 歴史に浸れる度 ★★★★★(上杉・武田・北条の抗争の歴史)
- 他では見れない度 ★★★★★(類を見ない巨大な平山城)
- 総合評価 ★★★★★
- アクセス性 ★☆☆☆☆(群馬はあまり便利ではない)
- 登城のしやすさ度 ★★★★☆(大堀切への上り下りが少し大変)
- 分かりやすさ度 ★★★★☆(割と解説あります)
- 景観度 ★★★☆☆(花が綺麗)
- 女性と行ける度 ★★★★☆(整備が行き届いています)
- 総合評価 ★★★★☆
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