■概要
関東から北陸へ抜ける街道沿いの沼田盆地に位置し、戦国時代には越後の上杉氏、信濃の武田氏、関東の北条氏の三大勢力によって激しい争奪戦が繰り広げられたお城です。
天文元(1532)年ごろに、当地を治めた沼田氏12代当主・万鬼斎顕泰により築城されました。上野エリアの勢力拡大を狙う武田勝頼は、天正8(1580)年、真田昌幸を派遣して沼田城を奪取します。そして、その翌年沼田城の奪還に来た沼田平八郎景義を謀殺して、沼田氏を滅亡させます。その後、北条氏と、武田家滅亡後に独立した真田家がそれぞれ沼田の領有権を主張して対立しますが、羽柴秀吉による惣無事令により、沼田城は北条氏のものと裁定され、真田家は沼田城を北条氏に明け渡し、隣接する名胡桃城まで防衛ラインを後退させます。北条氏は、その後裁定を破って沼田城から名胡桃城を奪取したことにより、秀吉に征伐(小田原征伐)され、滅亡します。
北条氏滅亡後、沼田城は真田家に返還され、昌幸の嫡男・信幸(のちの信之)が真田分家当主として城主を務め、昌幸は信州上田城に本拠を置きます。信幸は長い戦乱で疲弊した沼田城下を復興させ、沼田城を近世城郭に再構築します。
関ヶ原の戦いで、真田家は昌幸が西軍、信幸が東軍に分かれて戦う事となり、西軍に与した昌幸は戦後改易となります。これにより、信幸は父・昌幸の治めていた上田領も拝領して沼田とあわせて上田藩を立藩します。この頃、沼田城には五層の天守閣が作られます。
余談ですが、信幸の妻・小松姫は徳川家きっての猛将・本田平八郎忠勝の娘で、かなりの男勝りな性格であったと言われています。秀吉の死後、昌幸・信幸がそれぞれ西軍・東軍に分かれて戦うことが決まった「犬伏の別れ」の帰路に昌幸は信幸不在の沼田城に立ち寄り、密かに城を奪う目的で、留守を預かっていた小松姫に「孫の顔が見たい」と言って開城を求めますが、小松姫は義父の謀略を見破り、「たとえ義父であっても西軍の将を入城させぬ」と言って昌幸を一歩も入城させなかったというエピソードが残っています。
上田藩の立藩後、真田家の御家騒動により沼田藩が独立することとなりますが、藩主・信利の暴政により廃藩となり、後は天領・本多氏・黒田氏・土岐氏を経て明治維新に至ります。
■見どころ&写真
沼田公園として整備されていますが、遺構は極端に少ないため、注意深く散策しましょう。
主な見どころは以下の地図の通りです。
<沼田公園マップ>
(沼田市観光協会公式パンフレットより)
<三ノ丸跡>
本丸・二ノ丸南側に位置し、侍屋敷があった場所です。
現在は沼田公園駐車場になっています
<沼田城址碑>
大坂の桜は散った後でしたが沼田はまだ桜がありました。
真田時代とされている本丸堀の石垣です。
本丸堀の石垣跡は約6メートルで、城内最大の高さがあったと言われています。
露出している部分以外にも数十メートルの石垣が埋まっていると推定されています。
こちらは戦国無双4の信之と小松姫。
<鐘楼(復元)>
江戸時代に建てられたと思われる時刻を知らせる鐘。
真田氏時代の力強い石垣跡を見ることのできる沼田城址最大の見どころです。
<沼田城御殿桜>
残念ながら葉桜になってました。
樹齢400余年なので、江戸時代の頃に植えられたことになる沼田城の形見です。
<公式パンフレット>
沼田市観光協会公式サイトからダウンロードできます。
- 城名 沼田城(倉内城)<続日本百名城No.116>
- 種別 平城
- 登城日 2019年4月22日(月)
- 住所 群馬県沼田市西倉内町594
- 電話番号 0278-25-8555(沼田公園内観光案内所)
- スタンプ設置場所 沼田公園内観光案内所
- 公式HP 沼田市観光協会
- 入場料 無料
- 駐車場 無料
- 所要時間の目安 60分程度
- 混雑度 中
- 注意点 特に無し
~城として~
- 難攻不落度 ★★☆☆☆(イマイチ不明です)
- 歴史に浸れる度 ★☆☆☆☆(もはや普通の公園になっています)
- 他では見れない度 ★☆☆☆☆(特筆すべきは無いです)
- 総合評価 ★☆☆☆☆
- アクセス性 ★★☆☆☆(沼田があまり便利ではないかと)
- 登城のしやすさ度 ★★★★☆(そこそこ広いですが平地です)
- 分かりやすさ度 ★☆☆☆☆(解説や案内が少なくわかりにくい)
- 景観度 ★☆☆☆☆(期待できません)
- 女性と行ける度 ★☆☆☆☆(厳しいかと)
- 総合評価 ★★☆☆☆
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