■概要
南北朝時代には、現在の八代城の東側の山岳地帯に城塞群が築かれ南朝方の重要拠点となっておりましたが、戦国時代には大名・相良氏がここに「古麓城(ふるふもとじょう)」を築いて居城しました。当時「八代城」といえばこの古麓城を指すものでした。
相良氏は、強大化する薩摩の島津氏の侵攻に屈したことにより、「惣無事令」に抵抗する島津氏ともども豊臣秀吉に攻められて敗北し(九州征伐)、以後八代を含む肥後国は佐々成政に与えられます。
しかし、佐々成政は秀吉の命を破ったことにより国人一揆を引き起こしてしまい、その責任を取って改易された後は、肥後国の北半国は加藤清正、八代を含む南半国は小西行長に与えられます。
小西行長は古麓城を廃して、新たに八代海に出る球磨川の河口の三角州に「麦島城」を築城して南蛮貿易を推進しますが、行長は関ヶ原の戦いで西軍に与して敗れて斬首され、肥後国は南半国も含めて加藤清正に与えられます。
麦島城は、元和の一国一城令でも存続を許され、肥後国は例外的に熊本城・八代城の一国二城体制を許されますが、元和5年(1619年)の大地震によって倒壊してしまいます。
その後、加藤清正の次男であり第2代藩主の忠広は、球磨川の北側の平野部に現在の八代城を築城します。
もともと麦島城を三角州に築城した理由は、北方の加藤・南方の島津両方に備えるためであり、加藤氏が肥後一国を所領することになったことから、南方だけに備えれば良くなったことから、自然の流れで球磨川の北側に築城することになります。
寛永9年(1632年)に加藤忠広が理由不明の改易を受けた後は、豊前小倉藩主だった細川忠利が肥後熊本藩主に移封され、忠利の父・細川忠興が八代城で隠居生活を送ります。
忠興は、自身の四男・立孝に自身の隠居料9万5千石を継がせて立藩させるつもりでしたが、忠利・立孝が若くして相次いで亡くなり、二人の子に先立たれた忠興自身も没してしまいます。
忠利の跡を継いだ光尚は、筆頭家老の松井氏を八代城主に置き、以後明治の廃城まで松井氏が代々城主を務めます。
■写真&散策記
八代城の駐車場は以下のピンが立ってある場所にあります。
当時は二ノ丸にあたります。
(本丸の北東隅です)
八代城の縄張りです。
本丸への入り口は東入り口(欄干橋→頬当て御門)、北入り口(唐人櫓)の2か所です。
駐車場(二ノ丸)から欄干橋(本丸の東入り口)方面のショットです。
堀に浮かぶ石垣が落ち着いたたたずまいを見せています。
本丸の東入り口です。
橋を渡ると高麗門と頬当御門(櫓門)で防備が固められていたとのこと。
本丸内は「八代宮」という神社になっているので、関連の施設が並んでいます。
本丸入って左手には相撲場があります。
かつては能舞台があった場所です。
石垣を登ってみます。
左側に突き出ているのは本丸南東隅の「横櫓」です。
戻って本丸北側中央部分。
こちらが大手門かと思いきや、こちらは当時橋は架かっていなかったそうです。
八代宮へアクセスしやすいように架けた橋ですね。
こちらが八代宮です。
南北朝時代に南朝方として足利軍と戦った懐良親王が主祭神となっています。
右奥が天守台、左手前が小天守台です。
このあたりは作業用のトラックなどがゴチャゴチャしていて写りこまないように撮るのが大変でした。
本丸北入り口は「埋御門」と呼ばれていました。
(構造的に埋門だったわけではないです)
城を出て北ノ丸から天守台を望む。
こうしてみると堀がとても広く感じますね。
石垣に登ってみます。
こちらは北入り口の桝形虎口を守っている「九間櫓」跡です。
北ノ丸との間の堀を眺めながら北東隅(三階櫓)へ。
石垣に柵をしていないのが良いですね。
以上で散策終了!
- 城名 八代城(松江城)<続日本百名城No.190>
- 種別 平城
- 登城日 2019年11月23日(金)
- 住所 熊本県八代市松江城町7-34
- 電話番号 0965-35-2448(八代宮)
- スタンプ設置場所 八代市立博物館未来の森ミュージアム
(八代市西松江城町12-35 0965-34-5555) - 公式HP きなっせやつしろ
- 入場料 無料
- 駐車場 無料
- 所要時間の目安 60分程度
- 混雑度 小
- 注意点 特に無し
~城として~
- 難攻不落度 ★★★☆☆(防御に適した立地です)
- 歴史に浸れる度 ★★☆☆☆(江戸時代のお城なので・・・)
- 他では見れない度 ★☆☆☆☆(普通の天守無し平城です)
- 総合評価 ★★☆☆☆
- アクセス性 ★★★☆☆(八代インターからほど近い)
- 登城のしやすさ度 ★★★★★(散策しやすい平城です)
- 分かりやすさ度 ★★★☆☆(解説もそこそこあります)
- 景観度 ★☆☆☆☆(景観は特に期待できません)
- 女性と行ける度 ★★☆☆☆(厳しいかと)
- 総合評価 ★★★☆☆
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