■概要
鎌倉時代の守護であった伊予宇都宮氏当主の宇都宮豊房によって築城された城で、当時は「地蔵ヶ岳城」と呼ばれました。
宇都宮氏は、以後二百年以上にわたって南予地方を支配しますが、永禄末期の毛利氏と中予の支配者である河野氏との連合軍に敗れて滅亡し、その後は、宇都宮氏家臣であった大野直之が城主となります。
直之は、土佐の長曾我部元親と結んで、毛利・河野に抵抗し、何とか大洲城を守り抜きますが、豊臣秀吉の四国征伐に伴い、毛利氏家臣の小早川隆景に攻められて落城し、以後は小早川隆景が伊予35万石に封じられたことにより、大洲城は伊予国の本拠である湯築城の支城扱いとなります。
天正15(1587)年、戸田勝隆が城主として入った後に、文禄4(1595)年、藤堂高虎が蔵入り地の代官として入城すると近世城郭に改修され、その後慶長14(1609)年、淡路より脇坂安治が入城すると天守閣などの建造物が建築されました。その後、元和3(1617)年に米子より加藤貞泰が入城し、その後加藤氏が12代にわたって大洲城主を務め、明治維新を迎えることとなります。
<明治時代における大洲城の古写真>
(出典:大洲市公式HPより)
■見どころ&写真
大洲城は復元天守なのが残念ですが、全て国産木材を使った木造復元のため迫力のある佇まいです。
平成14年の復元のため、内部は少し新しい感じが否めませんが、年数とともに風合いが出てくるのではないでしょうか。
名古屋城の天守閣も、河村たかし名古屋市長の意向を受けて現在木造復元中ですが、現在のエレベーター付き&コンクリート造りからこのような風格あるお城になるかと思うとワクワクしますね。
戦国時代の伊予国の攻防の歴史に思いを馳せてみましょう。
<天守閣内部>
まだ少し新しいのでお城というよりログハウスのようです。
■写真&散策記
この日は早朝に大阪を出発し、淡路鳴門自動車道⇒徳島道⇒松山道をぶっ飛ばして大洲に向かいます。
松山道のほぼ終点にあたる大洲インターを降りて、10分ぐらい車を走らせると大洲市街地に到着します。
車窓からは、昨年度の豪雨災害のあと更地になったであろう場所が多く見られ、痛々しいです。
大洲城は明倫堂跡が無料の駐車場となっており、そこから徒歩で登城することに。
<明倫堂跡>
伊予藩の藩校が建っていた場所です。裏が駐車場になっています。
このあたりのバス停は「桝形」です。
二ノ丸の正門である「大手門」があった場所です。
藩士はここから下馬して渡る必要があり、格式のある「薬医門」が設けられています。
二ノ丸に建つ下台所です。当時は食料庫になっていました。
奥に天守閣が見えます。
二ノ丸御殿跡の石垣です。
御殿は大洲藩主が藩政を執り行う場所でした。
「暗門(くらがりもん)」の名前の由来は、通常は防衛上の観点から城の曲輪の入り口は折り曲げてありますが、この門は折れ曲がりの部分の上から櫓を被せることで、文字通り内部を「暗がり」とし、侵入してきた敵の勢いを削ぐとともに、暗闇で混乱している敵を攻撃できるような作りにしていたことによります。
暗門を通過すると大洲城の天守と櫓が見てきます。
青空のため白亜の天守が綺麗に映えています。
城内へ。城内は撮影自由になっています。
しっかりと鉄砲狭間が付けられています。
高欄櫓からの風景です。
高さがないためそれほど見応えはありませんが、のどかな田舎の風景です。
櫓は当時を忠実に再現しているため、結構急な階段になっています。
天守を出て裏側にある鉄砲櫓跡に向かいます。
鉄砲櫓の隣の玉櫓からは大洲城の天然の堀になっている肱川が見えます。
玉櫓は肱川からの攻撃に備え、城内で最も堅固に作られていたといわれています。
肱川は昨年の豪雨災害で氾濫し、甚大な被害を出したことで全国的に有名になりました。
二ノ丸搦手門跡から内堀菖蒲園を見下ろします。
季節柄なのか、それらしいものは何も見えません。
内堀沿いの三ノ丸武家屋敷跡。
二ノ丸に最も近く、藩主の近習などVIPが住んでいたため、区画も広めです。
このままぐるっと明倫堂の駐車場まで戻って散策終了!
■公式パンフレット
- 城名 大洲城(地蔵ヶ岳城)<日本百名城No.82>
- 種別 平山城
- 登城日 2019年1月4日(金)
- 住所 愛媛県大洲市大洲903
- 電話番号 0893-24-1146(大洲城管理事務所)
- スタンプ設置場所 台所櫓入口(大洲城内入口)
- 公式HP 大洲市文化財探訪(大洲市公式HP)
- 入場料 有料(大人500円)
- 駐車場 無料(明倫堂跡駐車場)
- 所要時間の目安 90分程度
- 混雑度 中
- 注意点 特に無し
~城として~
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