■概要
なんと1162年(応保2年)という戦国時代より300年以上前の大昔に建てられた城です。
最初は、盛り土と塀で囲まれたただの集落でしたが、やがて郡山庄と呼ばれる村になり、郡山辰巳という者が城主となります。
郡山辰巳は、その頃大和国の中心であった筒井城を支配していた筒井順慶に従っていましたが、筒井順慶はやがて畿内から大和国に侵入してきた松永久秀に筒井城を追われ、郡山辰巳も久秀に鞍替えすることとなります。
しかし、最終的に筒井順慶は織田信長の助力を得て松永久秀を滅ぼし、信長により再び大和国守護として安堵され、郡山辰巳を殺して郡山城を完全に支配下に入れます。
やがて信長の破城令によって大和国は郡山城以外の支城(高取城など)が廃城となり、郡山城は大幅に改築され、近世城郭に生まれ変わることとなります。
その後、本能寺の変によって倒れた信長の跡を継いだ豊臣秀吉によって筒井氏は伊賀に転封となり、大和には秀吉の弟である秀長が百万石で入封し、その際郡山城も百万石に見合った城にするため大規模に改築されます。
(その際に、改築を急ぐため、和歌山県の根来寺から門をそのまま移築したり、付近の墓石や地蔵石などを調達して石垣に転用したといわれています)
その後、秀長の死により、五奉行の増田長盛が入封しますが、長盛は関ヶ原の戦いで西軍に与したため高野山に追放となり、家康により再び筒井一族が郡山城主に返り咲きます。
しかし、大阪夏の陣の際に、豊臣家からの合力の誘いを断ったことから、豊臣軍(大野治房など)が大阪から暗峠を越えて攻め込み、城主であった筒井定慶は城を捨てて落ち延び、郡山城は焼き払われます。
大阪の陣終結後、譜代大名である水野氏が城主に封じられ、荒廃した郡山城を修復します。
その後、郡山城は畿内に近い重要拠点であることから、代々譜代の大名が治めることとなります。
■見どころ
豊臣政権の屋台骨を支えた秀吉の実弟・大納言秀長の居城に思いを馳せましょう。
大和郡山城は、規模に圧倒される大坂城とは異なり、奈良の生駒山系を背にして静かななたたずまいです。
大坂の陣前夜、家康は豊臣家の影響力を低下させるため、秀頼をここ大和郡山に移封させようとしたと言われています。もし、秀頼がすんなり移封に応じていれば大阪の陣もなく、秀頼は郡山で静かな余生を過ごし、徳川家は武家筆頭、豊臣家は公家筆頭として後世まで存続したかもしれません。(このあたりは、小説「徳川家康」を読んだ影響が大きいかも・・・)
追手門付近に散策用の駐車場あります。
休日でもそんなに混んでいないので普通に泊めれます。
このあたりが写真や絵に最適スポットだそうです。
<石垣にみられる転用石>
天守構築時に石が足りずに墓石や地蔵石などを調達したため、バラバラの石が野面積みにされています。
大坂城みたいに海に面している城は、全国から石を運んでこれますが、内陸で山に囲まれた奈良県では厳しいかも。。大納言のお城としては少し雑な感じがしますが。
<御厨向櫓跡>
外堀をぐるっと一周して追手門に戻ります。
右側の堀に浮かんでいるのは「イケチョウ貝」という貝を琵琶湖から運んで養殖しているそうです。
なんでも、イケチョウ貝は水を綺麗に浄化してくれる作用があるため、堀の水質を保つために飼っているんだとか。
- 城名 大和郡山城(続日本百名城No.165)
- 城の種類 平城
- 登城日 2018年5月12日(土)
- 住所 奈良県大和郡山市城内町2
- 電話番号 0743-58-2171(柳沢文庫)
- 公式HP 大和郡山市HP
- 入場料 無料
- 駐車場 無料(追手門前)
- スタンプ設置場所 柳沢文庫(敷地内)
- 所要時間の目安 90分程度
- 混雑度 小
- 注意点 花見のシーズンは避けましょう
~城として~
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