■概要
豊後の戦国大名で一時は九州の北半分を制覇した大友宗麟が、中国地方より海を渡って北九州に攻め込んで来た毛利氏との合戦に敗れ、これまで本拠地としていた府内館(現在の大分市)を息子の義統に譲って、自身の居城として築いた城です。
現在は、陸地の平山城になっていますが、当時は周りを海に囲まれた「丹生島(にうじま)」と呼ばれる島に築かれた海城で、丹生島城と呼ばれていました。大友宗麟はキリシタン大名として有名ですが、臼杵の城下には、礼拝堂などが築かれ、貿易の拠点としても栄えました。
大友氏は、毛利氏に敗れるまでは、九州の6ヶ国(肥前・肥後・豊前・豊後・筑前・筑後)の守護大名を兼ねるなど、破竹の勢いでしたが、毛利氏に敗れて以降は衰退の一途をたどります。
天正14年(1586年)に日向(宮崎)方面から北に攻め上る島津氏の侵攻を、当時ポルトガルから輸入した「フランキ砲」という大砲(国内では「国崩し」と呼ばれた)で撃退(丹生島城の戦い)するも、北と南から攻められた大友氏の勢力の縮小は止まるところを知らず、窮した大友宗麟は羽柴秀吉に援軍を要請し、島津氏の撃退に成功しますが、秀吉による九州征伐完了後、大友氏は豊後(大分)一国にまで縮小されることとなります。
その後、秀吉による朝鮮出兵(文禄・慶長の役)のときに、豊後から参戦した大友宗麟の子・義統は「敵前逃亡」の容疑で改易(取りつぶし)にあって大名としての大友氏は歴史から消滅します。
その後、臼杵城は、福原氏・太田氏を経て、稲葉氏が入城し、明治維新を迎えることになります。
西南戦争では、臼杵藩家老の稲葉氏が籠城するなど、近現代の戦争の舞台ともなっています。
西南戦争の後に城の周りは埋め立てられて現在に至ります。
■見どころ
通常の平山城の場合だと、平野から城山に向かって徐々に盛り上がっているものですが、臼杵城は当時海に浮かんでいたのが想像できる周囲を絶壁に囲まれたお城です。
写真で見るとお城自体が盆栽やジオラマのように見えます。
このようなお城が当時海に浮かんでいたと想像するだけでワクワクしますね。
しかし、九州の北半分を制覇していた大名の城としてはとてもこじんまりとしたお城と言えるのではないでしょうか。九州では最強を誇った戦国大名・大友宗麟が衰退に向かうターニングポイントとなったお城で、ぜひ歴史に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。
■写真&散策記
昨日宮崎での仕事を終え、鈍行に揺られ揺られて、臼杵市までやって参りました。
休日ですが、駅前はご覧の寂しさです。
駅前にある臼杵の名所「臼杵摩崖仏」をモチーフにした像。
山の方に行くとこのような崖に彫られた仏像があるそうです。
これはこれで行ってみたい。
このあたりは元々は海だったとのことで、海抜がとても低いです。
臼杵のメイン通りと思われる場所です。
残念ながら人は・・・
周りが海だったという事で、城の周りは断崖絶壁。
鐙坂は、大友氏時代から外敵を防ぐために、岩を削り出して作った狭い登城路です。
馬の鐙(あぶみ)に似ていることから鐙坂という名前に。
戦時中は防空壕として使われた穴がところどころにあります。
どんどん登っていきます。
鳥居のあたりが中門跡。
鳥居があるのは、二ノ丸が臼杵護国神社になっているからです。
中門から二ノ丸方面へ真反対に折れ曲げてあります。
このあたりで侵入する敵の勢いを削いで、中門・畳櫓や二の丸など四方八方から射撃することが可能となっています。
井楼(せいろう)櫓跡石垣です。
城下を一望できる重要な櫓で、城内でも最大規模のものです。
井楼櫓跡石垣(左)と畳櫓(右)
畳櫓には外部からは見えない「隠し狭間」が発見されています。
二ノ丸の玄関口にあたる大門櫓です。櫓は残念ながら模擬復元です。
両サイドの石垣は18世紀後半と割と最近作られた「亀甲積み」の石垣です。
二ノ丸は御殿が建っていましたが、現在は臼杵護国神社になっています。
城内で最も眺望が良いとされる井楼櫓跡からの眺望。
臼杵市街地が一望できますが、今日はあいにくの空模様です。
右に見えるのがドコモの鉄塔です。
ポルトガルから輸入したフランキ砲(国崩し)のレプリカです。
これで鬼島津の猛攻を撃退しました。
自称「日本一のクリスマスツリー」に使われているモミの木だそうです。
「クリスマスツリー 日本最大」で検索すると、日本各地のモミの木が出てきたので、この手の情報はあんまりアテにならないですね。
二ノ丸と本丸との間を区切る「空堀」です。
臼杵城の空堀には、大友氏時代の空堀(北側)と、17世紀に作られた空堀(南側)の二つがありますが、こちらは17世紀に作られた空堀(南側)です。
鉄門の橋から北側をのぞくと大友時代の空堀があります。
一面草で覆われていて、石垣がくっきりと残る南側の空堀とは様相が異なっています。
北側の空堀は17世紀の空堀(南側)と異なり、石垣はほとんど残っておらず、傾斜も緩やかで、空堀内部に下りていけるようになっています。年数が経つうちに傾斜に土が積もっていったものものと思われます。
空堀内部から天守台を望む。
この天守台は大友時代のものですが、大正時代に上半分4mが削られてしまっていて、元々は7mもの高さのある石垣でした。急こう配で整然と積まれた南側石垣との違いが分かって頂けるかと思います。
本丸の東側に、搦手にあたる卯寅口門(うとのくちもん)櫓跡が見えます。
火薬庫になっていた櫓です。
卯寅口門櫓は本丸から一段低い場所にあります。
ここからすぐ先は当時は海になっていて、有事の際の海への脱出口になっていました。
また、卯寅口門は臼杵城の水の手である井戸があったことから、「井戸丸」とも呼ばれていました。
臼杵城の生命線にある大井戸です。
卯寅口門櫓のすぐ脇にあります。
10メートル以上の深さがあり、周りを海に囲まれながらも十分な水量を確保できていました。
しかし、こんなに城の外縁にあって防衛上は大丈夫なものでしょうか??
ここから本丸・二ノ丸を通って、上ノ門より外に出て、稲葉氏が入城した際に作られた今橋口より城外に向かいます。今橋口は桝形が連続する防備の高い登城路になっています。
右に折れると今橋口から城外に出ますが、今回は左方面に向かって大門櫓に戻ります。
振り返えると、17世紀に築かれた堅固な二ノ丸石垣を見ることができます。
二ノ丸曲輪の外縁に沿って坂道を登っていきます。
右側に弓道場があります。
稲葉氏入城以降の17世紀に城下に時を知らせる時報の役割を果たしていました。
ぐるっと回って大門櫓に戻ってきました!
これにて散策終了です!
続日本百名城スタンプは古橋口すぐの「臼杵市観光交流プラザ」にあります。
- 城名 臼杵城(丹生島城、亀城)<続日本百名城No.193>
- 種別 海城
- 登城日 2019年2月8日(金)
- 住所 大分県臼杵市大字臼杵100-2(臼杵市観光交流プラザ)
- 電話番号 0972-63-1715(臼杵市観光交流プラザ)
- スタンプ設置場所 臼杵市観光交流プラザ
- 公式HP 大分県観光情報公式サイト
- 入場料 無料
- 駐車場 無料(臼杵市観光交流プラザ)
- 所要時間の目安 90分程度
- 混雑度 小(ゲートボール客を除く)
- 注意点 特に無し
■管理人の勝手な評価
~城として~
- 難攻不落度 ★★★★☆(当時は周りは海でしたので)
- 歴史に浸れる度 ★★★★☆(大友宗麟の歴史に思いを馳せましょう)
- 他では見れない度 ★★★★☆(やはり海城は一風変わった佇まいです)
- 総合評価 ★★★★☆
- アクセス性 ★☆☆☆☆(どこから行くにしても超・不便です)
- 登城のしやすさ度 ★★★★★(それほど広くもなく高くもなく)
- 分かりやすさ度 ★★★☆☆(解説はそれなりにあります)
- 景観度 ★☆☆☆☆(だいぶ弱いです)
- 女性と行ける度 ★★☆☆☆(臼杵摩崖仏とセットですかね)
- 総合評価 ★★☆☆☆
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