■概要
1582年(天正10年)頃に、北条氏によって築かれた平山城です。
1582年(天正10年)、織田信長が本能寺の変で倒れたことにより無主の地となった甲斐・信濃・上野で天正壬午の乱が勃発。真田氏は一度は北条氏に降るも、家康に鞍替えしたことにより、北条氏直は真田氏の岩櫃城ー沼田城のラインを分断するために、北条氏邦に中山城を築かせました。城番は、かつての沼田城主・沼田顕泰の子、赤見山城守がつとめ、北条氏による真田攻めの拠点として使われました。
北条氏と真田氏との間では沼田の地を巡って長らく争いが続いておりましたが、惣無事令により大名間の私闘を禁じた豊臣秀吉により1589年(天正17年)7月に領土の境目の裁定がなされ、概ね利根川を境として西側が真田領、東側が北条領となりました。
しかし、同年11月に北条氏が裁定に反して名胡桃城を武力で奪還したことから、激怒した豊臣秀吉は北条氏直を攻め、1590年(天正18年)小田原にて北条氏は滅亡します。
北条氏の滅亡により真田家は沼田領全域を安堵され、中山城は廃城となります。
■見どころ
舌の形をした丘陵に設けられた平山城です。
通常舌の先端部分に本丸を築くのですが、付け根側に築かれているという珍しい城です。
理由としては、付け根側(北方向)で真田領と接していたことから、あえて付け根側に本丸が築かれたと言われています。
本丸は東側を城東川、北西南側の三方向を二の丸によってガードされており、本丸と二の丸の間は深い空堀で区切られていました。くっきりと残る深い空堀跡が中山城の見どころです。
■写真&散策記
当日は、岩櫃・沼田・名胡桃の三城を回って帰阪する予定だったのですが、道中に中山城の看板を見つけて、ちょうど日も長くなってまだ明るかったので立ち寄ることにします。
コインパーキングも含めて駐車場はまったく見当たらないので、国道145号線沿いに停めておくしかなさそうです。
本丸に向かって小道を歩いていきます。
当時は三の丸⇒二の丸⇒本丸の順に北上していく登城路だったのかと思いますが、現在は、いきなり本丸にアプローチできるようになっています。
本丸の東側は城東川(写真の小川が流れている部分)が流れていました。
解説板と小さな祠が建っているほかは、特段何もありませんが、北西南の三方向には土塁が築かれています。(写真奥の部分)
二の丸との境目(西側)の空堀跡です。結構な深さがあります。
空堀は通路の役割も兼ねていました。
本丸の東側は城東川が流れているため土塁は築かれず、代わりに本丸と城東川の間の部分に下曲輪という平地の曲輪が置かれていました。
写真の左側が二の丸、右側が本丸です。
本丸の方がかなり高くなっていて、空堀でしっかりと区切られています。
短いですが、以上で散策終了です!
■城データ
- 城名 中山城
- 種別 平山城
- 登城日 2019年4月22日(月)
- 住所 群馬県吾妻郡高山村大字中山3540
- 電話番号 0279-63-2111(高山村役場地域振興課)
- 公式HP 真田街道HP
- 入場料 無料
- 駐車場 無料
- 所要時間の目安 30分程度
- 混雑度 極小
- 注意点 特に無し
~城として~
- 難攻不落度 ★★★☆☆(深い空堀に守られた平山城)
- 歴史に浸れる度 ★★★☆☆(真田vs北条の歴史に)
- 他では見れない度 ★★☆☆☆(舌型丘陵の城としては構造的には珍しい)
- 総合評価 ★★★☆☆
- アクセス性 ★★☆☆☆(群馬って大阪からだと不便・・・)
- 登城のしやすさ度 ★★★★☆(少し山道を歩きます)
- 分かりやすさ度 ★★☆☆☆(このクラスの城としてはしっかり解説あります)
- 景観度 ★☆☆☆☆(特に期待できません)
- 女性と行ける度 ★☆☆☆☆(無理です)
- 総合評価 ★★☆☆☆
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