■概要
新府城(しんぷじょう)は、勝頼時代の武田家きっての策士として知られる真田安房守昌幸が築いた名城として知られる。
勝頼の父・信玄は当ブログのタイトルにもなっている「人は城 人は石垣 人は堀」という名言で知られる通り、本拠地は「躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)」といって、城を築かなかったことで有名である。これは信玄時代の武田家がいかに優秀な人材に恵まれ、また信玄にそれら優秀な家臣団をまとめる求心力を持っていたかが伺える言葉でもある。
武田勝頼は決して暗愚だったわけではなく、むしろ優秀な君主であったことは近年になってようやく言われるようになってきたが、「鉄砲の三段撃ち」で知られる長篠の戦いで織田信長・徳川家康連合軍に敗れ、信玄時代からの優秀な家臣を多数失った勝頼は、国土防衛のために物理的な「城」を作り、躑躅ヶ崎館から本拠地を移転させることを決意した。
戦国時代一二を争う策士・真田昌幸が築いた城であり「出構」などの先進的な防衛設備が結集した堅城であるが、織田・徳川連合軍による武田領への侵攻(甲州征伐)までに完成が間に合わず、高遠城の陥落と一族衆・穴山梅雪の裏切りで追い詰められた勝頼は新府城に火を掛け、家臣である小山田信茂を頼って落ち延びるが、小山田にも裏切られ、最終的には天目山で自害し、武田家は滅亡する。
■見どころ
石垣などの遺構は残っていないが、本丸・二ノ丸・三ノ丸・大手虎口・馬出・出構など、真田昌幸の築城技術の粋を極めた軍事要塞としての城跡を十分に感じ取ることができる。武田家ファンには少し辛いだろうが、破滅への悲しい歴史に是非思いを馳せて頂きたい。
事前学習コンテンツとして、大河ドラマ「真田丸」や「センゴク天正記」15巻(甲州崩れ編)がおススメである。学習していかないと、ただの小山であるため、事前学習は必須である。
東側に走る県道17号線(七里岩ライン)沿いにある無料駐車場からアクセスすることになる。本丸跡にある武田八幡宮への参道(階段)を登ってしまいそうになるが、一本南側からの山道を登っていき、大手桝形虎口→東三の丸→西三の丸→二の丸→本丸→二の丸→乾門→出構の順路で見学し、駐車場に戻るルートがおススメである。(公式パンフレット参照)
ちなみに下記に掲載の公式パンフレットは、管理人は整備工事しているおっちゃんがたまたまくれましたが、おそらく城跡には配備されていないかと。もしかすると、パンフレット記載の民俗資料館でもらえるのかもしれません。不安な方は、印刷などしていってください。
<大手虎口を守る丸馬出(まるうまだし)と三日月堀>
<大手門>
<宮下英樹「センゴク天正記」第15巻より>
■事前学習コンテンツ
・大河ドラマ「真田丸」
武田氏が滅亡し、真田氏が大名として独立してから大阪の陣で真田昌幸・幸村親子が
滅びるまで真田氏の一連の歴史を知ることができます。
草刈正雄演じる一癖も二癖もある真田昌幸の謀将ぶりをご堪能ください。
・宮下英樹「センゴク天正記」15巻
「武田征伐甲州崩れ編」が収められた一冊。
木曾義昌の反乱を契機に織田・徳川連合軍が武田領に侵攻し、武田勝頼が天目山にて
討ち取られ武田家が滅亡するまでを描いている。
新府城の築城から、勝頼が火をつけて落ち延びる様についても描かれている。
<宮下英樹「センゴク天正記」第15巻より>

■城データ
- 登城日 2017年8月23日(木)
- 住所 山梨県韮崎市中田町中条字城山ほか
- 電話番号 0551-22-1111(韮崎市教育委員会)
- 公式HP 韮崎市観光協会
- 入場料 無料
- 駐車場 無料
- 所要時間の目安 120分程度
- 混雑度 極小
- 注意点 駐車場から新府城跡へ行くには、県道17号線を渡る必要があるが
見通しが悪く車の往来も激しいため、十分注意すること。
(写真撮影の際は特に注意したい)
~城として~
- 難攻不落度 ★★★☆☆(策士・真田昌幸築城の要塞ですが未完のため★1つ減)
- 歴史に浸れる度 ★★★★☆(甲州征伐における武田家滅亡の儚さに浸りましょう)
- 他では見れない度 ★★★★☆(「出構」「丸馬出」といった先進的な設備あり)
- 総合評価 ★★★★☆(ぜひ事前学習していきましょう)
- アクセス性 ★★☆☆☆(インターからはあまり近くありません、駐車場広し)
- 登城のしやすさ度 ★★☆☆☆(広さはまあままですが、ほとんど整備されていません)
- 分かりやすさ度 ★☆☆☆☆(解説パネル少なく、見どころ、順路が分かりづらい)
- 景観度 ★☆☆☆☆(平山城ですが景色は特に期待できません)
- 女性と行ける度 ★☆☆☆☆(歴女以外との同行はやめておきましょう)
- 総合評価 ★☆☆☆☆(戦国好きにはたまりませんが、それ以外の方は・・・)

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