■概要
世界でも唯一の成功例となる「水攻め」で落城したことで有名な備中国(岡山県)の城です。
築城時期は不明ですが、備中国守護代で三村氏の家臣であった石川氏が築いた城です。
石川氏は三村氏ともども毛利氏に滅ぼされ、その後は毛利方の名将・清水宗治が城主となります。
<清水宗治の錦絵>
天下統一を狙う織田信長の配下で中国・毛利攻めを担当していた羽柴秀吉は、備中国を押さえるために毛利方の諸城に調略の手を伸ばしていましたが、毛利方の守将・清水宗治は頑として応じませんでした。
そこで、秀吉は高松城を武力で落とすことを検討しましたが、高松城はわずか比高4mの平城でありながら、周囲を湿地帯に囲まれ、まともに人馬を進軍させることが出来ませんでした。

備中高松城の本丸(奥)と湿地帯(手前)
そこで、秀吉の軍師であった黒田官兵衛孝高は高松城が二方を山、一方を足守川に囲まれ、折しも梅雨時で川の増水期であったことに目を付け、残る一方向に堤を築いて高松城を水没させる計画を秀吉に進言します。
秀吉は、周辺の村々から住民を動員して、約300メートルの堤をわずか12日間で築き、足守川の流れを引き込んで高松城を見事水没させました。
その後、毛利軍は吉川元春を大将として援軍を送りますが、既に高松城は水没しており、援軍は手も足も出ず、両軍にらみ合いの状況が続きます。この間、高松城は兵糧の補給が出来ず、餓死を待つしかない状態となっていたため、戦況は圧倒的に秀吉の有利でした。
そこで、毛利方は外交僧・安国寺恵瓊を通じて秀吉と和睦交渉を行いますが、5か国という破格の領土の割譲を提案する恵瓊に対して、秀吉は領土の割譲に加えて城主・清水宗治の切腹を要求したため、交渉は難航します。毛利方が宗治の切腹に難色を示した理由は、織田方が、「下克上」の言葉に代表される実力主義制であったのに対し、毛利方は、「百万一心」の言葉に代表される通り、主従間の信頼関係で成り立っていたため、宗治の切腹を認めることは、毛利家の信頼関係にヒビが入ることを意味していたからです。
秀吉は、全てのお膳立てを整えたところで、毛利攻めの手柄を主である織田信長にあげてもらうために、安土の信長に出馬を乞います。しかし、信長はわずかな供回りを連れて備中高松城に向かう途中、宿泊した京の本能寺にて、同じく丹波から中国に出兵したはずの明智光秀によって討たれてしまいます。(本能寺の変)
「信長倒れる」の知らせを受けた秀吉は、条件を清水宗治の切腹に絞って毛利方との和睦を短期間でまとめ、城主・清水宗治の切腹を見届けるやいなや、全軍を率いて大阪に向けて神速行軍を始めます。(中国大返し)
その後、高松城は宇喜多領となりますが、関ヶ原の戦いで西軍に与した罪で宇喜多家が改易となると、宇喜多家の旧臣で関ヶ原の戦いでは東軍に与した花房職秀が入城します。職秀は城の整備に取り組むが、職秀の死後、一国一城令により高松城は廃城となります。
■見どころ
公園の内部には沼地も再現してあり、水攻めの歴史に思いを馳せることが出来ます。
高松城公園は、歴史を知らなければただの公園ですが、実際に1985年の洪水の際には高松城周囲一帯は水没しており、水攻めの歴史が史実であったことが実感できます。
築堤跡もあわせて見学し、秀吉・官兵衛による奇想天外な水攻めと、忠臣・清水宗治の戦いの歴史に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。

本丸跡周辺に再現された沼地
■写真&散策記
鬼ノ城からの高松城と、続日本百名城巡りですが、本日はあいにくの天気ですが、雨にも関わらず数台の車があり、県外からの観光客も複数いました。
高松城水攻めも梅雨の時期でしたので、逆に登城には絶好の季節かもしれません(笑)
本日はまず備中高松城を三ノ丸⇒二ノ丸⇒本丸⇒自刃の地⇒胴塚の順に散策し、その後車で高松城水攻築堤跡に向かうことに。
まずは備中高松城址公園内へ。
当時の本丸の曲輪の高さと、秀吉が築いた堤の高さが表示されています。
綿密に高さを計算して水攻めが行われたことが良くわかりますね。
三ノ丸跡です。
高松城址公園資料館です。合戦当時の歴史等を学ぶことが出来ます。
資料館の内部。
気さくな館長のおじちゃんが案内してくれます。(入館無料)
解説VTRも見れますが、なんと本日は満席となり私含め立ち見が数人出るという盛況ぶりでした。
続日本百名城スタンプもこちらの館内にあります。
ちなみに館長の話を聞いていると、「備中松山城」と間違えて来る人が後を絶たないようですね。
確かに同じ岡山県やし、響きは似てますが・・・
意外にも関ヶ原の合戦でも徳川方の陣屋として活躍したようです。
有名な清水宗治の辞世の句碑です。
「浮世をば 今こそ渡れ 武士(もののふ)の 名を高松の 苔に残して」
清水宗治首塚。
秀吉が名将・宗治を惜しんで建てさせた供養塔です。
湿地帯が見事に再現されています。
清水宗治自刃の地です。
高松城の東にある寺の一番奥にあります。
宗治は、落城の日、秀吉の用意した小舟に、兄月清入道などと乗り込み、舞をひとさし舞った後に辞世の句を詠んで見事切腹して果てました。
こちらは清水宗治胴塚。
宗治の切腹後、家臣が舟で城へ返して主君の遺体を城内に埋めたことから胴塚と呼ばれます。
宗治の切腹により高松城の将兵は解放される約束でしたが、宗治の介錯人を務めた家臣が自ら首を斬って宗治のあとを追うなど、彼がいかに家臣から慕われる存在であったかが伺えます。
本丸北側の駐車場から、西へ50メートルぐらいのところにあります。
高松城への入り口となっていた「舟橋」です。
高松城は周囲の沼地を天然の要害としていたため、有事の際に城へのルートを遮断するため、川船を並べた橋を登城路としていたと言われています。
車で高松城を出て、高松城水攻め築堤跡(蛙が鼻築堤跡)まで来ました。
秀吉は、自らが本陣を置いた石井山の南のこの場所を起点として西に300メートルの堤防を築いて高松城を水没させました。明治の鉄道工事で、堤についてはほとんど撤去されてしまいましたが、ここには築堤の跡がわずかに残されています。
秀吉は、地元の人々に土を詰めた俵を運ばせて築堤しました。
その時の俵の跡が残っています。
築堤跡は最上稲荷の大鳥居が見られる場所にひっそりと佇んでいます。
以上で本日の散策終了です!
- 城名 備中高松城<続日本百名城No.171>
- 種別 平城(沼城)
- 登城日 2019年3月10日(日)
- 住所 岡山県岡山市北区高松558-2
- 電話番号 086-287-5554
- スタンプ設置場所 高松城址公園資料館(城内)
- 公式HP おかやま観光ネット
- 入場料 無料
- 駐車場 無料
- 所要時間の目安 90分程度
- 混雑度 中
- 注意点 特に無し
~城として~
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